皆一踊り
旧暦8月15日に一宮神社に奉納される皆一踊り
知夫に伝わる郷土芸能「皆一踊り」は郡地区にある天佐志比古命神社(あまさしひこのみことじんじゃ)通称「一宮神社」で毎年秋に踊られる。以前は一宮神社祭礼で奉納されており、他にも雨乞いや風祈祷の際にも随時奉納していた。
この皆一踊り、一説によると800年以上の歴史があると言われている。歌、踊り手が円陣を作り中央に4人の鼕打ち(どううち)が立つ。歌は踊りに、踊りは太鼓に、太鼓は歌に気を配り三者が一体となって呼吸を合わせることで初めて神前に奉納するに相応しい踊りになる。鼕の音に合わせて歌いながら扇子を一本持って踊る素朴な踊りである。現在では踊り手、歌い手は表裏赤白の扇子を持ち、鼕打ちを含めた全員が背中に紋の入った白い袖なしの羽織を着る。
存続が危ぶまれながら繋がった鼕打ちの継承
昭和の初め、鼕打ちは青年団の若者が打つことになっていたが戦後若者の出稼ぎが増えいつの間にか廃れてしまった。昭和42年(1967年)に当時村長の発起により復活させた。その後、後継者が育たずそのまま廃れる運命であったが、どっさり節等の民謡と共にどうしても残したいという有志が集まり昭和45年(1970年)郷土芸能保存会を結成、皆一部門は仁夫里堂に集まり練習をするようになった。しかし、夜間のことで安眠妨害との苦情が入り、以後は赤ハゲ山や西山農道等において練習を重ねて鼕打ちの後継者を育てた。
しかし、夜間のことで安眠妨害との苦情が入り、以後は赤ハゲ山や西山農道等において練習を重ねて鼕打ちの後継者を育てた。仁夫区長の助力で区民有志の踊りの協力もあり毎年踊りを奉納できるようになった。その後、十数年同じ鼕打ちの手によって踊りが続けられたが、再度後継者難に苦慮することことになった。保存会で種々検討した結果、中学生を鼕打ちとして指導養成することを思いつき中学生の協力を得て指導を開始、昭和61年(1986年)から中学生3名、小学生1名の鼕打ちが誕生した。
中学生鼕打ちが誕生して数年後の写真。当初は多沢地区の踊りも奉納していたため鼕打ちの人数が足りず女の子も参加した。
現在の皆一踊り
鼕打ちは男性の役とされ男子中学生を中心に約2週間前から開発センターで練習が始まる。2、3年生は経験者として1年生に教えながらバチのタイミングを合わせていく。長年指導に携わった井尻義教さんは昨年(2018年)で引退され、現在は息子の晃さんが指導をしている。今年は引退後初めての奉納になり「今年は太鼓も踊りも出来がよく、皆頑張ってくれた」と喜んだ。
現在は学校の協力を得て小中学生が参加し、地域の人と共に老若男女が入交って奉納をしている。
長年太鼓の指導をしてきた井尻義教さんと今年から指導役になった息子の晃さん。
踊りの前の祈祷。現在は島留学生も加わり鼕打ちは男子のみで構成されている。
踊りは地元の小学生やIターンの若者、女性も参加する。保護者や観光客が撮影をするため境内が賑わいを見せる。
小学生も法被を着て周囲の大人を真似て踊る。
皆一踊りのルーツ
知夫村に残る「皆一踊り」は全国に残る民俗芸能の分類としては「風流芸能」の分類に属している。「風流」とは「人の目を驚かす趣向」という意味で、その範囲は広く京都の祇園祭に巡行する「山鉾」や、島根県では津和野町に残る「鷺舞」などもこの分類に入る。
一般的な盆の踊りもこの系統だが、全国的に「風流踊り」とか「風流太鼓踊り」と呼ばれる一群が全国的に伝承されており多くの府県で無形民俗文化財に指定されている。
知夫村に伝承された「皆一踊り」は確かにこの系統なのだが、風流の要素がない。踊り手や太鼓打ちに美しく飾るという意識がないのだ。
しかし、踊りの形態や踊りの歌は全国に残された「風流踊り」の形態を残している。
山陰地方には伝承が少なく因幡は「鳥取市越路の雨乞い踊り」「鳥取市佐治町雨乞い踊り」しか残っていない。
島根県では知夫村の「皆一踊り」が唯一である。出雲市佐田町須佐に伝承された念仏踊りや、邑智郡邑南町矢上の虫送り踊りなども風流踊りに分類されるが前者は念仏で踊るものであり後者には歌が歌われない。
「皆一踊り」の特殊性
皆一踊りは島根県に唯一残る風流系の踊りだが肝心の風流性が残されておらず華やかさはないが、太鼓打ち(一般の風流踊りでは注連太鼓なのだが、知夫では宮太鼓(鼕)を用い踊ることがない)のリズムと歌われる歌謡が風流踊りの系統に属する。
一宮神社の祭礼に集まって踊るという形式の痕跡も残す。戦後だけでも衣装が変化しており本来の姿がわからない。
歌の歌詞と歌い方は他地域に伝承された風流踊りと近似しており、隠岐島諸島群の最南端の地に伝承されたことは海上交通との関係性を伺わせる。