更新日:2021年12月10日
VOL.7 小西 梅子(こにし うめこ)さん
「人口よりも牛の数が多いのでは」と思ってしまうくらい、畜産業の盛んな知夫里島ですが、現在のように肉用牛の繁殖専門農家による多頭飼育が盛んになったのは、昭和45年以降。
それ以前、牛は、主に農耕・運搬を担う役牛(えきぎゅう)として、各家庭で僅かな頭数が飼育されていました。
小さな離島で平地の少ない知夫里島は、農作業の機械化も遅く、昭和50年代初めまで農耕には牛が欠かせない存在でした。
「一家に一頭、牛がいる生活」が、近年まで続いていたのです。
今回ご紹介するのは、小西商店の名物おばあちゃん・小西梅子さん。
昭和8年(1933年)生まれの御年88歳、小さな体からみなぎるパワーと笑顔が素敵な梅子さんですが、実は、つい最近まで凄腕の畜産農家でもありました。
幼いころから牛を飼い、移り変わる時代の中を牛とともに歩んだ、梅子さんの人生をお伺いしました。
■ 貧乏だった子ども時代
なんでもかんでも皆「供出だ」って、持ってかれただわい
梅子さんが生まれたのは昭和8年。ドイツではナチスによる一党独裁が始まり、日本が国際連盟を脱退するなど、世界中がきな臭くなっていく時期でした。物心つくころには、日本は戦争の真っただ中。移入食糧の不足や生産量の低下などから国全体が食糧不足に陥り、政府による半強制的な食糧の供出(きょうしゅつ)が行われました。
「私らの子どもの頃な、ほんとうに食べ物がなかっただけん。米どころか麦もないが。供出供出いうて。我が食うやつはあるかないかぐらいで。みーんな供出。」
その頃、出稼ぎで大阪に出ていたお父さんが、病気のため帰郷し、そのまま亡くなってしまいます。梅子さんが9歳の時でした。
梅子さんのお母さんは、梅子さんと8つ違いの妹、そして幼くして父母を失った梅子さんのいとこの吉春さんも引き取っていたので、食糧難の中、3人を女手ひとりで育てることになります。
「すごい貧乏でね。父親が死んでから、母親がひとりで、私の妹もおっただけん、3人の子どもをひとりで育てた。今のように年金もあらせんから、貧乏。」
梅子さんが生まれた仁夫地区は農家が多く、梅子さんの家も農業で生計を立てていました。昔の農家は、秋に収穫した大豆・小豆・麦などを売った時ぐらいにしか現金収入が入りません。
「現金稼ぐためには牛飼わにゃ現金が入らんだけん、(母親は)どげぞして牛飼わぁかな~って、牛一頭買って。牛の世話は私だだわい。」
■ 牛との暮らしが始まる
牛も貴重な現金収入源。親牛に子牛を産ませて売ることでも現金が入りました。
お母さんは日銭を稼ぐために、毎日農作業のお手伝いに奔走。梅子さんは牛の世話を任されました。
「お母さんと一緒に遊ぶことは絶対なかった。仕事仕事。8つちがいの妹の子守りしたり、学校から戻ったって人と遊んだことあらせん。牛の仕事は私の仕事。山(=畑のこと)をおこすにも何するにも、薪を負うにも、牛で昔はしよったけん。」
隠岐・知夫里島で700年続いた4輪転式牧畑農法が、知夫の暮らしの原点と言われています。島を4つの牧に分け、放牧をしながら麦・豆類・稗を順番に作付けする農法で、牛を引いて山へ行き、鋤をひかせて田畑をおこし、牧に牛を放牧する、牛と共にある暮らしでした。牛を一斉に次の牧に移す際には、仲間総出で駄追い(だうぇい)と呼ばれる牛追いをするのが恒例だったそうです。
輪転式牧畑農法の名残、牧の境界を区切る名垣(みょうがき)
■ 冬は海苔つみ
農閑期の冬には海苔つみもしました。岩海苔は高く売れるので貴重な現金収入源だったそうです。
「海苔の収入で半年は暮らせたかな。海苔貼りもやったわ。500枚ぐらいはあったかな。
(母は)体も私よりこまいぐらい。なんと言われの働いた。働かんと食われんだけん。海苔つみ行っても、人より先に帰ることはありゃせん。人の一番後まで残って、よおけつんで戻らにゃ気に入らんだけん。
「海苔つみは白海士も西の海も何処でも行った。赤ハゲ山を上がって歩いて行った。藁草履はいて。
なかなか行きにくいところ、滝のようなところを降りなならんだけん、歩かれんようなところ、そういう人間があまりいかんところには(海苔が沢山)あるが?
つんで戻ってから(海苔を)貼るのが嫌で。子どもはようせん。母親が教えよったからしよったけど。」
昭和20年、小学校を卒業した梅子さんは、島後の西郷の女学校に入学。寮生活を送りますが、終戦後さらに悪化した食糧難で、野菜を皆で作ったり配給の米や魚を交代で買いに行ったり、非常に苦労したそうです。
■ 女学校卒業後、就職、結婚
女学校卒業後、梅子さんは知夫に戻り、農協や郵便局で働き、20歳で結婚。
お相手はいとこの吉春さん。結婚後すぐに、吉春さんの仕事の都合で千葉県の市川に転居します。
「じいさんは、市川で何年か大工をしとった。でもじいさんが子どもの時から船が好きで、船に乗りたい思っちょったほうだ。私の叔父が船乗りで、『船に乗らんか』言ったら、『船に乗る』って言うて。」
船乗りになった吉春さん。昔はいったん航海に出ると2年は戻ってこれません。梅子さんは子どもを連れて、再び知夫に戻ります。
■ 子育てと、牛と、百姓
千葉から戻ってきた梅子さんは、子育てしながら、お母さんと一緒に田んぼと畑と牛のお世話の仕事に精を出します。昭和20年代後半には農家も生活が安定していました。
「その頃も良かったよ。田んぼも、畑も、牛も5~6頭は飼っちょるし、あの頃は一番充実しちょったかもしれんな。」
40歳(昭和48年)の頃には、知夫の女性で3番目に自動車運転免許を取得。
当時、本土の農作業は機械化が進んでいましたが、知夫ではまだ「牛」がメインでした。
「その当時は、皆はないけど、トラクターはあった。古い耕運機を何回か使ったことはあったけど、その頃はみんな牛。牛に鋤を引かせてばっか。
あの頃の牛は偉かった。牛を引いてあるくでしょ、左行けとか右行けとかいう言葉があるだわい。『右=でや』『左=つぁい』等々。牛が3つになると『脳入れる』といって、でや・つぁいを教える。田んぼに入れて、教えるのよ、2人がかりでね」
右=でや 左=つぁい 後ろへさがれ=じぇい 止まれ=だぁ
■ 昭和52年の水害で
大雨降ってきた、お母さん、はやまた水が来っだ、どげすっだやーって
牛に鋤を引かせて田んぼを耕し山に放牧する、小さな島での日常を、未曾有の大水害が襲います。
昭和52年8月8日。午前5時からの集中豪雨により各地で崖崩れが発生。梅子さんの住む仁夫地区でも横尾川が氾濫し、崖崩れによる死者1名が出るなど甚大な被害が発生しました。
梅子さんの自宅も浸水し、梅子さん家族は高台にある神社に避難して難を逃れます。
『新修 知夫村誌』より
「雨がやんでから家に帰ってみたら、こげな大きな杉の木が家の庭に、横にざーっと。あれ見た時には、もうダメだと。よう片付けんけん、もうここにはおられんど、よそ行かあどって、母親に。ホントに私逃げる気でおった。おったけども、皆さんが助けてげーてね、皆で片づけてげーて。」
一番のここにおる気になったのは牛
「赤ハゲの向こう、居島牧ってあるでしょ、そこに牛を6頭放しちょっただわい。牛どころじゃねーだけん、牛も居島で死んでしまっちょらーけん、お母さん、共に他所行かあどって言っちょったわね。
1か月ぐらいしてから、生けちょるもおらーけん居島行ってみようかって、2人で居島に行って、うちの牛がいつもおりよるところで、私が呼んだわね、『もーもー』って。そげしたら、6頭おった牛が下からみんなもーもー言い上がってきたわね。
やあ~、あげな感動したことはないな。やれ~、こえらが生きよってげーたに、こえらが為に逃げちゃならん、うらはここにおってこえらを飼わないけん、という気になった。あげな感動したことはなかった。」
「雨が来ると牛は賢いけんね、蔭の方に行くのよね。隠れるのよ、下の方にね。草のあるとこ探して。
私が今までこげしちょるのは、やっぱり牛のおかげだな。牛飼っちょらにゃとうに他所行っちょらーず。」
この災害により田んぼも壊滅的な被害を受け、過疎化や農家の高齢化により、大部分の農家が米作りを辞めていきます。そして、昭和62年には知夫から全ての田んぼが姿を消しました。
■ 畜産農家への転向
災害を機に、梅子さんも米作りを辞めて畜産農家に転向。親牛に子牛を産ませて売る繁殖農家となりました。
牛も、畜産改良の成果や需要増加によって次第に高値がつくようになり、梅子さんは仲間たちと共に、少しでも高い価格で売れるように研究を重ね、努力を続けていきました。
昭和57年には、梅子さんを部長に知夫畜産婦人部を立ち上げ、疫病の媒介となるダニの駆除や牛舎の一斉消毒を獣医さんの指導のもと行い、子牛の死亡率の低減に尽力するなど、牛の世話に全精力を傾けました。
そのたゆまぬ努力が結実し、島根県畜産共進会の婦人審査競技大会では、初出場の知夫畜産婦人部が優勝。翌年も知夫が2年連続優勝するという快挙を成し遂げました。
写真一列目の一番左が梅子さん
「一番よけいだったのは18頭。母も元気だったから手伝っちょったけん。牛もやり、山(=畑のこと)もやり。」
梅子さんのお母さんはとても元気な方だったようで、思い出話がどんどん飛び出します。
「うちのばあさんは、田んぼの草取りも、昼になると弁当食べるが。畦に腰掛けるが。田んぼに足入ったまんま、弁当食べるのも早いだけん。そいで『のしはおっちらと食えな。おらは仕事すっけん』って。私はまだご飯食っちょるに。じっとしちょらせん、そんな人だった。体調崩すこともほとんどなかった。元気な人だった。」
そんな元気なお母さんも90歳で逝去。
お母さんが亡くなった後、梅子さんは70歳近くで小西商店を開店。お母さんが店番をしていた商店に後継者がおらず、同じく後継者がいないご近所のタバコ屋さんを両方引継いでのことでした。
70歳近くで初めてのことに挑戦するのはとても勇気がいることと思いますが、そこはパワフルな梅子さん。「牛も畑もお店も」のフル回転の生活が続きます。
(書家・梅子9段。60代で知夫に来ていた獣医さんから書道を教わり、20年ほど続けて現在9段。この書は7段の時に書き、優秀賞を貰ったもの。「これは宝。」)
■ 牛との生活70年
平成27年の暮れに手術をしたのを機に、82歳で引退するまで、牛を飼う生活を続けた梅子さん。
「70年牛を飼ってきただけん、色々あっただわい。生き物相手だからいいことも悪いこともあるけど、人間とは違って、同じ生きもんでも、人間の気持ちが牛というものは分かるけんな。牛の相手しとりゃさえすれば心が軽うなる。今でも農業新聞見ても牛のこと見ちゃう。私のことは『牛ばけ』、ばけって気ちがいのことだぞ。私のこと『あら牛ばけだけん』って言う。」
知夫で開催された畜産共進会にて
梅子さんのお話には「牛は賢い」という言葉が度々聞かれます。その言葉には、牛と共に生き、牛に助けられ生きてきた梅子さんの、牛への愛や尊敬の念が込められているように感じました。
■古き良き時代
日々の暮らしの中で、知夫の変化を肌で感じてきた梅子さんに、いつ頃がいい時代だったか、伺ってみました。
「災害前、昭和52年まで。40年代が一番良かったろうずん。
500軒あるこの島に、一軒の家に牛がいないことがなかっただけん、牛を飼っている人間いうもんがね、人の心が結んじょりよったわ。牧の仕事するにも、何するにも、みんな一緒になって共同でやりおったわ。組合長の一声で、みんなが出ちょっただわい。今の人間にはそれはできしぇん。
今はもう年老いて飼うものも少なくなったし、一軒の家で何十と飼うようになっちょっが?全然違ってきちょる。
あの頃は、何かあっても牛飼いが寄って『あげしよか、こげしよか』って相談もしよったけど、今のもんはそげなことも全然ないけん。牛がおるけんこそだった。」
畜産婦人部の仲間たち・獣医さんと共に。左から2番目が梅子さん
昭和52年の水害によって暮らしが様変わりし、過疎化や高齢化も相まって、共同体の人と人との繋がりも薄らいでいったのでしょう。
「人との繋がりの希薄化」はどの地方でも課題となっています。都市部から来た人間には、知夫は人と人の距離が近く絆の強さを感じますが、昔は今以上に強い絆で結ばれていたのでしょうね。
これから知夫がどうなっていったらいいか、と伺ったところ、
「そこが難しいだな。私らの世代と今の戦後の人は全然違う。私らで考えて、あげすらいいなこげすらいいなと思っても、できんと思う。」というご意見が。
厳しい時代を生き抜いてきた梅子さん。今の時代は今を生きる若い世代が作っていけばいい、という風にもとれる言葉でした。
「別荘地みたいになって、年寄りが、みんなでおれば、それが一番いいことでないかと思う。」
どんなに時代が変わっても、繋がり方は変わったとしても、人と人との「絆」が暮らしを作り、人の心を支えていく。それは変わらないのではないでしょうか。
今も地域の仲間たちとの絆を大切に生きる梅子さんの元気な笑顔が、変わらない大事なものを体現しているように感じました。
(取材・写真:吾郷、井上、高木、櫻谷 2021.7.15、30)
(文:櫻谷)
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