VOL.5 前田 實(まえだ みのる)さん
インターネットの普及により、簡単に欲しいものが手に入る現代社会―知夫里島も例外ではありません。しかし、知夫に電気や水道などのインフラが整ったのは60年ほど前、最初の東京オリンピックの頃です。
前田實さんは、生まれも育ちも仁夫の御年86歳。(昭和9年-1934年-生)戦中、戦後を生き、そして令和の今と、知夫の生活の移り変わりを肌身で知っています。何事も手仕事でやり遂げてきた少年時代からの暮らしを語っていただきました。
■生きるために食べる、食べるために作る、毎日
麦飯のつなぎに米をちょびっと混ぜて炊いたのを食べていた
赤ハゲ山の名垣が象徴的な4輪転式牧畑農法。島を4つの牧に分け、放牧をしながら麦、豆類、粟・ヒエを順番に作付けする、世界で隠岐だけに存在した農法で、中でも昭和40年ごろまで、一番長く続けられていたのが知夫でした。仁夫地区の農家の一人っ子の長男坊だった前田さん。子供の頃から牧へ通って、家族の生活を支えるべく農作業をしていました。
「牛に弁当背負わして山へ行って、仕事が終わったら家に連れて帰る。(牧畑農法のなごりで、隠岐の人は畑のことを“山”と言う)みそ漬け、麦飯の弁当。米なんて贅沢で食べられない。東山(東牧)に行くときは暗い内に家を出た、腕時計を持ってないから時代だから何時に着いたかは分からない。居(い)島(じま)(牧)に行くとね、西ノ島の崖のようなところがあって、そこが陰ると、いなにゃ(帰らなければ)いけんと。ところが陽が当たってなかったら影ができんけん、曇りの日は時間が分からん。仕事に夢中になってあわてて帰ったら、赤ハゲ山で陽が暮れてしまったことがあった。家のものが心配してちょうちん持って赤ハゲまで迎えに来たわね(笑)」
知夫村誌に載る牛のと民具のイラスト。手先の器用な前田さんが、当時を思い出して描いた
一番勉強しなければいけない小学校5・6年生の時に、戦争が酷となった
牛を連れて山へ通い、自分たちの食べる作物を育てるだけでも大変でしたが、兵隊さんの食料も確保しなければなりませんでした。戦争中、そして戦後もしばらくは、政府が強制的に米を供出(きょうしゅつ)させる制度があり、せっかく作った農作物も次々と納めていました。
「学校に行っても、繊維用の桑の皮剝ぎ、山(やま)蕗(ぶき)採り、わらび採りに行った。それから勤労奉仕として、兵隊さんの留守宅の芋掘りや、麦の中耕(なかう)ち(作物の生育の途中で、を浅く耕すこと。 空気の通りを良くし根の呼吸や吸収を促すために行う)等をさせられた。小学校6年生の時、終戦になったけども、戦中も戦後も、“供出(きょうしゅつ)”いうのがあってね、米を作っても兵隊さんにあげないといけない。芋を作っても、いいものは供出せなならん、供出、供出でなあ。小さいのをクドロと言ったがそれは自分たちで食べる。牧畑に芋を植えたこともあった、自分たちが食べるために。
神島に山蕗採りに行ったときに、航空兵の御遺体が流れ着いてるのを見つけて、警防隊に知らせた事もあった。知夫の若いもんもみんな戦争に行った。わしの親父も戦争で亡くなった。輸送船に乗ってたからなお狙われた。」
終戦の後、小学校を卒業した前田さんですが、当時、知夫には中学校がありませんでした。お父さんの言い残した、中学以上の学校を出て欲しいという望みをかなえる為、一人、境港の親戚の家に下宿をします。毎朝叔母さんが、「みのうさん、おきしゃんせや、六時だぜ。」と言って起こしてくれて、それから知夫の実家から送ってくれる米と麦が混ざったものを自分で炊く。一日分を炊いて、それを朝、昼、晩と3回に分けて食べる。毎日必死だったそうです。
■ 牛と畑とカンコ、そして大工の仕事
昔は、海苔も藻場もわかめも天草も、全部 “ス”があった
中学2年で知夫に戻り、卒業後、再び境港へ渡る前田さん。桶職人になるためです。しかし技術を身に付けて知夫に帰ってきたものの、桶の需要は下火になっていました。前田さんは大工と農、漁業を兼業します。
「結婚は早かったなあ、21だったかな。家内は19、仁夫の人。恋愛結婚か?それは想像に任せるわい(笑)そのころの地蔵担ぎは、料理出しての接待はなかったね。酒飲んで騒いだりはしたし、浜の方の家だったら船を運んできたりもした。お地蔵さんは3つ持ってきて、一つは仲人だからいうことで隠した。宮司さんが結婚した時は、俺は神主だから地蔵さんは受け付けないと言われて、大山さんから狛犬をトロッコに積んで持って行った。いい思い出だわな(笑)」
自宅も他の仕事の合間を縫って自分で建てた。細かな造作の欄間は接着剤も使っていない
「今は隠岐に一つしかないけど、西ノ島の別府に造り酒屋があってね、御所いう酒を造っちょったところ。そこの大きな桶に輪をかけたり小さい桶の修理に行きよった。大工道具を牛の背に結わえて来居まで家内と歩いて行った。なだよしいう連絡船に乗って別府に行く。家内は牛を連れて帰る。何日か泊まり込んで仕事して。平田から杜氏が来ていて、そういう人達とも大分付き合った。帰るときは、その時は電話はあったけん電話して、来居までまた家内が牛を連れて向かえに来た」
「一時期、わかめが良く採れた時代があって、カンコを手で漕いでわかめ刈りに行った。4月か5月になると、西ノ島のあおなぎいう所に、動力船にみんなのカンコを数珠繋ぎにして引っ張って行ってもらって。わかめは干して板わかめにして漁協に売った。その頃の他の現金収入は大豆と小豆。並河本店さんが買って本土に売っていた。
あのころは”ス“があってね、神葉は食料、藻場は肥料、天草はところてんにして、盆にはかならず作って、食べる分と線香立ての分と。無縁仏が帰る“餓鬼(がき)棚(たな)”というのを笹を4本で、棚を作ってなすびやきゅうり、団子供えて。その線香立てにもところてんを使ったね。」
■ 昭和38年(1963年)知夫電気、中国電力に吸収される。昭和45年(1970年)村内簡易水道普及100%に到達
わしらの年代が一番、色んな時代を知っとる。
戦後、出征していた人達が戻ってきて結婚をし子供の数も増えましたが、国の高度経済成長により、出稼ぎで本土に移る人も多くなり人口は減少して行きます。
そして昭和40年代に入り、インフラが整い生活の形態が一変する中、前田さんは村の芸能や伝承の保存活動にも身を置くようになります。郷土芸能保存会を作り、途絶えていた皆一踊りの復活に尽力します。「昔の良かった事は続けてもいいし、悪い事はやめてもいいし。」少なくなっていく若者を集めて、赤ハゲ山等で練習をし後継者を育てました。現在の中学生の鼕打ちも、前田さん達の発案で始まったものです。
「昭和45年に区長になってね。仁夫里の浜の西側で牛飼ってて、冬場だごい(牛馬の糞のこと)を海へどっどこどっどこ捨てる。牛の後産で出たものまで海に捨てちょったけんな。それが汚いから、赤島、さざえ島の方に持って行くことにしようと言ったら、要らん事するとか浜へ捨てるのが当然だとか、わしの方が悪いように言われたけど、結局止めることになった。
お日待ちも食糧難の時代から無くなってたけど、復活させた。1月14日に、地下(じげ・地元の意味)日待ち、15日に宮司さんの代官家(よこや)日待ち。代官家さんとこの大きな土間を座敷にして始めた。
色んなことを残す事をやってきたし、改革もやってきたと自負しちょる。いいと思うことはやらないけん、なかなか難しいけど、わしが若くて、血の気が多かったから出来た事(笑)」
■ 趣味が高じて・・・
都会に出ても、何かの形でふるさとを思い出して欲しい。
そういう気持ちで方言カルタを作った。
平成4年(1992年)に、前田さんは知夫村誌の編纂(へんさん)で民俗の担当になり、方言やことわざを集めます。そして平成20年(2008年)頃、島根大学の教授が出雲弁カルタを作ったことを知って、知夫のカルタも作ろうと思い立ち、22年に作業、文化財保護審議委員会に謀り、23年に作製しました。
「訛りも調べてみると面白い。仁夫で“指”はイベ、郡ではエベと発音する。だけん郡の人に言わせたら、このカルタは仁夫里弁だと言う。最近は観光カルタも作ってみた。
『泊まり船 お松に残した どっさり節』 『昔から 牛泳がせた 島津島』 『文覚が 生きてる証し のろし上げ』…
今は牛もやめて何もする事がないけん、2ヶ月に1回のナンプレ、クロスワードは毎月定期購読しちょる。ボケたらいけんけん写経したりね(笑)」
方言カルタの絵札も前田さんの手描き。ひと昔、ふた昔前の知夫の生活の様子が垣間見れる・・・ノスタルジー
写経も几帳面で器用な前田さんならではの完成度。圧巻の一言!
■知夫を一言で表すと・・・
これからの知夫にどうあって欲しいかとの問いに、今の知夫の状態はちょうどいいんじゃないかなという前田さん。人口を増やすためには、仕事があればいいといっても産業を起こすのは難しい、畜産だってそんなに頭数が飼えるわけじゃない。だから今の状態を維持できればごちそうさんだと。それでは、最後に、知夫を一言で表すとどうですかと聞いてみると―
「おお。難しいな(笑)人情的には厚いとこだと思うよ知夫は。島中の人が知っちょるわけだな。どこそこの誰それだと、絆があるいうかな。絆があるいうことは、悪い事も出来んだね。恥だもんな。知らん間なら恥の掻き捨てでいいけど、知ったもんだと恥だからな。そういう点でいいことだと思う」
絆があるから助け合える、とはよく聞く言葉ですが、前田さん曰く「知った仲だから悪い事は出来ない。」少年時代から生活のために懸命に働いてきた前田さんの誠実さが伺えます。そして知夫への思いは、作ったカルタの読み札にも込められています。
「せまくとも 広くて厚いは 知夫人情」
インタビュー・写真 吾郷 井上 竹川
文 竹川
Comments