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俺は観光産業だと思う。人が出入りしないと栄えない。

更新日:2020年6月2日

VOL.6 西谷 信幸(にしたに のぶゆき)さん



「観光」というと、以前は旅行会社や鉄道会社の広告発信で流行を作り出していたのが、近頃はSNSを使って個人が発信した写真や動画で、無名の町や小さな離島があっという間に観光地になる、なんていうことも珍しくありません。

さて、この「観光」について、これまでも知夫里島の人たちは互いの想いをぶつけながら様々な挑戦をしてきました。しかし年々人口が減少し、暮らしに関わる産業が数多く失われた島は観光だけでなく生活のゆく末までも、この島に住む誰もが頭の隅で考え続けています。

今回ご紹介するのは西谷商店三代目店主、西谷信幸さんです。

長年、観光産業や文化芸能に関り島を盛り上げて来た西谷さん。20才で家業の西谷商店を継ぎ、50年以上この島の繁栄と衰退を見てきた一人です。西谷商店とご自身の歴史、知夫里島に今も情熱を注ぎ続けているその想いを伺いました。






■西谷商店の歴史

 

初代の寅吉、二代目が増一、で俺は平凡な信幸。三代目の潰し役

 


西谷商店は約一四〇年前、境港から知夫里島へ移ってきた初代寅吉さんが店を建てられました。なんと当時、西谷家は移住者だったのですね。

「知夫里島は商業の地だった。昔は本土から来る船はまず一番近い知夫里島へ向けてやってくる。海が時化ても風があっても食料を補給できる島へ着けば一安心。船は一〇日とか半月くらい風が収まるのを待って、水や食料を物々交換して出て行った。一番栄えたのは仁夫里の湾内、それから郡、薄毛、多沢。だから知夫里島は商業の原点だったわけだ。」



小学生の信幸少年と母、従業員さん



店先で母と従業員さん


西谷商店は島前で1番最初に銀行の代理店になったそうです。初代寅吉さんの頃から取り扱う商品が多かったことがわかります。食料統制の時代は米の配給所にもなっていたとか。

そして信幸さんは商店の歴史の話をするうちに幼少期の思い出を聞かせてくれました。





■ 電気もガスも水道もない時代から

 

夜の8時くらいから電気がパッとついた!

 


65年前まで電気、ガス、水道が無く、井戸水を汲みに行っていたそうです。知夫の各地区には沢山の井戸がありました。

「ランプ掃除が俺たちの仕事。石油を注いで芯をきちんとして。ホヤのススをボロ布できれいに磨いて。学校は四角で大きな火鉢の炭火だ。石炭もあった。それも分け前があってな。それが小学5年生くらいに電気が通った。夜の8時くらいから電気がパッとついた!冬は7時ごろから。その代わり、各家庭に裸電球1個。だから線が長いわけよ。ごはん食う時は台所まで持ってきて。こっちを明るくする。で、またこっち。消灯は11時。その10分前に明るくなったり暗くなったりして、電圧を変えて10分後に消えますよっていう合図がある。夜遊びしとる俺らが、さあ帰ろうで11時だぞって。で、あちこちで遊んでたみんなが急いで帰る。それが7,8年続いたんじゃないかな。」

信幸さんは昭和21年生まれの第一次ベビーブームの世代。いまの静かな島からは想像がつかないくらい、当時はどこでも子供の声が聞こえるような賑やかな島だったのでしょう。





 

相撲は高平山

 

高平山にある知夫里島灯台



「電気の量が少ないからテレビは高平山、薄毛の灯台の灯台守のおじさんのところまで見に行った。みんな相撲が見たかったんよ。鏡里や吉葉山、栃若時代。そこだけテレビが映るからみんなが灯台にいく。終わったら駆け下りて家に帰るわけだな。みな走って。仁夫里からも歩いて。車なんてあれへん。自転車は郵便局の赤いのが2台しかなかったんだから。」

島の最南端にある知夫里島灯台から仁夫地区まで現在の道で約6km、徒歩で1時間半かかります。皆、相撲が終わると急いで家に帰るために急斜面を駆け下り走って家まで帰ったそうです。現在の灯台までの道ではなく、最短で下りる真っすぐな道が出来てしまうほどだったとか。




■家族のはなし

 

身体の弱かった弟と会えなかった父

 


信幸さんには弟がいました。しかし、粉ミルクや砂糖も手に入らない時代。身体が弱かったため栄養失調で生まれてから1年で亡くなってしまいます。そして、小学校2年生の時にお父さんが亡くなられます。信幸さんはお父さんとのわずかな記憶を今でも覚えているといいます。

「小学校2年の時に亡くなったけども、それまで5年ほど戻ったことがなかった。言わんのよ、病名を。松江日赤、米子医大に入院したことは知っているけど2歳か3歳までは行ったり来たりしてた。だけどそれからおらんから。5,6,7,8歳と。だからよく覚えてない。覚えてないけども、一つだけ覚えてることがある。」






 

父との記憶

 


「たまたま外泊がいいって言われて、親父が帰ったことがあるんよ。1晩か2晩。そん時に川の字に寝たんよ。俺を真ん中に。で、お袋と親父が「おい信幸。かあちゃんがいいか?とうちゃんがいいか?」となったわけや。こっち向け。こっち向けと。俺はこっち向けと言われれば母ちゃんの方向くし、とうちゃんの方向けと言われれば父ちゃんの方向くし、電気もない暗い中で。だけど、おれはどっちもな、どっちも好きだしどっちもいいから真っ直ぐ上向いて寝ると言って、寝た。それだけを覚えてる。それだけしかない、両親との思い出っちゅうのは。その時の声のやり取りがな、真っ暗だけど、それだけがガーンと残ってる。」

お父さんは病院から最後の外出許可が下り、家族に会いに帰ってきたのでしょうか。その数か月後に亡くなられ、遺体は第一隠岐丸(当時の本土と知夫を結ぶ船)に乗って帰ってきました。

「その頃の船は今みたいに昼じゃないんよ。郡、大江の湾に着くのが夜の1時半から2時ごろ。第一隠岐丸。ほんとにペンキ臭くて汚い船だ。人間用の船と、櫓こぎの荷物積むやつの船と二つがギコギコギコギコ、沖にイカリを下して待っているとこへ行くわけや。タラップが下りてきて船に乗る。横に穴があってそこから荷物を積んだり、降ろしたり。だから親父が死んだときに夜中に帰ってきたんよ。」








■ 親一人子一人

 

遠いまち松江へ

 

郡大江湾に着く隠岐丸


それからお母さんは商店を一人で経営をすることになります。大きなお店なので従業員5,6人に住み込みで働いてもらっていたそうです。お母さんの頑張る姿を見て信幸さんは考えました。

「中学校の時、お袋が元気であれば俺はもっと大きなところで頑張りたい。なにで頑張りたいかっていうとスポーツで頑張りたい。それで中学1年の時、出させてもらおうと思ったけども出してもらえん。一年間頼み込んで中学2年から家出同然で島を出たんよ。」

夢に向かって松江に上京した信幸さん。小さな島から本土へ行き中学、高校時代を過ごします。






 

バレーボールにささげた青春

 


「家を出るときな、松江高校(現松江北高)行かんかったら許さんって言われたんよ。そのために勉強した。で入学して1年の時だけは成績がよかった。ところがバレーボールがしたいから2年、3年と成績が落ちて化学の単位が足らんから卒業できんことになった。で、先生に家までお願いに行って。頭下げて、酒2本。先生が怒ってな。俺の授業を真面目に受けてなかったってな。「まじめにやります。すみません。」って謝って、酒好きはわかってたから「どうにかこれで。卒業できんと家にも顔が立ちません。せっかく隠岐の島から出てきて。すみません。お願いします!」「なら、あとちょっとしかないけども、追試験みたいなことをちょっとやるか?」「やります!」ってさ。追いつくはずないけど。したら先生が「なら、わかった。」「失礼します。ありがとうございました!よろしくお願いします!」って帰って。残り一ヵ月しかなかったけど、卒業できたんよ!」

破天荒なエピソードを楽しく語ってくれる信幸さん。先生との会話の緊張感まで再現されていて当時の状況が目に浮かびます。

苦労の末、高校を卒業した信幸さんは日本体育大学へ進み夢だった全日本、そして日本一を目指し勇往邁進しました。





■島からの電話

 

お袋がダメになった。結核だった。

 


「大学2年の時だった。お袋が結核になった。治療に1年はかかる。誰が見る?親戚に呼ばれて正月に親族会議があった。「お前、のほほんと学校なんか行ってる場合か、家を誰が見るんだ?」お袋があと2年、3年元気でいてくれたら俺は大学におれたけども。じゃあ、丸2年で3月に帰るからあと1,2か月待ってくれと。

大学に戻ったらみんな驚いた。教授や監督にも引き留められたが、「未練が残ります。きれいに忘れたい。店を継ぐから教員もできない。お袋の面倒も見ないといけない。」といって丸2年で島へ戻った。それから荒れた。」

大学に入った時に思い描いた夢、そしてダメなら体操の先生になろうとまで人生設計をしていた信幸さんにとってまさに震天動地でした。島へ戻った信幸さんは毎晩のように10人以上の仲間を集めて赤ハゲ山へ上り、酒を飲んでいたそうです。

しかし、信幸さんは夢を失い小さな島で商店の後を継ぐだけの人生を送ろうとはしませんでした。






■祭りやイベントを生み出した

 

赤ハゲ開き

 



毎年春におこなわれる野だいこん祭りは知夫里島の人たちが楽しみにしている恒例行事です。現在は来居港を会場としていますが、当初は赤ハゲ山で「春の島開き」としておこなわれていました。

「野だいこん祭りっていうのは、元は赤ハゲ山に特設ステージを作って「赤ハゲ開き」って言って俺らがやりだした。車が少ないから俺らが送って、タダで飲ませ食わせしてさ。みな飲めよ食えよで好きなほど出して。そしたら祝儀がすごいんよ。「ありがとう!ありがとう!」って千円とか二千円とか。気持ちなんよ。」

お年寄りから子供まで沢山の人で盛り上がる、島の人の繋がりの強さを感じます。信幸さんは野だいこん祭り以外にも、夏は「サザエのつかみ取り」、「花火大会」、お盆の行事で「ふるさとでの集い」など多くのイベントに力を注がれました。

そして伝統芸能である皆一太鼓や島の民謡、一宮例大祭も盛り上げていきます。










「一宮神社の祭りも神輿出すぞということで中にご神体を入れて皆さんの家の前を神様が通って、今年一年また来年も幸せでありますように。皆が災いを退けて幸せでありますようにと。漁師も全部大漁旗立てて漁協の前に船をつけて神輿を乗せる。多沢、薄毛を回って神島、仁夫里を回って戻ってくる。」

信幸さんは奥さまの千晶さんが亡くなられるまで例大祭に携わっていたそうです。語られる言葉の節々に人の手によって受け継がれてきたものを残したい、生きていることへの感謝を表したいという想いが伝わってきます。





■知夫の今と昔について

 

島の人のつながりというものは薄くなった。感じがする。

 


「よく昔はよかったとか、こうだったとかいうじゃない。知夫里らしさってもんがあるよな。らしさっていうものが変わってきた。知夫里はこうなんだ、こういうもんなんだ、これが知夫里だというもの。それははっきり言うとあなた方には分らんと思う。俺はそれがものすごく、住んで、生まれてよかったなというものがあるわけよ。それをほんとは今の皆にな。分かってほしい。こんなに知夫里はいいんだぞ。こんなにすごいんだぞと。」

島は昔、一年の中でおこなわれる様々な行事で繋がり合い、まとまっていたと信幸さんは言います。言葉にできない、目に見えない一体感が表せないもどかしさを感じます。




■これからの知夫について

 

俺は観光産業だと思う。人が出入りしないと栄えない。

 


「知夫里はね。一番いいんよ。これくらい小さいと30人か50人が力を合わせたらとんでもないことができる。観光産業ってものすごい力がいるし、オールラウンドなんよ。宿泊施設だけじゃなくて陸上、海上の交通、飲食、文化財や郷土芸能もだし、漁師や畜産農家の協力もいる。自然はいいし、人間の素朴性が残っている。観光の一番の原点は人間なんよ。」

時間はかかっても、人の出入りする場所に戻ってほしい。沢山の人に来てほしい。島の良さを知っている人だからこそ言える想いが込められています。





■知夫を一言で表すとしたら

 

知夫里らしさを求める

 


「知夫里らしさっていうのは変わっていくと思う。時代とともに。だけど他の町や村と違い知夫里独特のらしさというのは、今ここで共に暮らしているものからまた生まれてくると思うんよ。だけども、残しておきたい「らしさ」、新しく作っていく「らしさ」がある。」

一瞬、考えた信幸さんは静かに一つひとつ言葉を置くように話してくれました。この変化を受け入れながら古くからあるものを大切にする、という姿はこの後話していただいた隠岐民謡にも表れていました。






■隠岐民謡の発祥地

 

隠岐民謡は数多くある。

全部本土から流れてきたものが隠岐らしさになった。

 


「民謡も隠岐に100くらいある中で90曲くらいは全部知夫里から生まれた文化。北前船の上り下りがここへ入ってきて、東北や日本中の文化を教えてくれる。民謡一つでも、東北の民謡、北海道の民謡、九州の民謡、そんなものを船頭さんが教えてくれる。それをここでみんなが滞在しながら、やる。教えてもらう。そして、それが西ノ島、海士、西郷、島後とつながっていく。伝わっていく。だから民謡一つでも9割くらいは知夫里が発祥なんよ。」

信幸さんから民謡への想いが伝わってきます。そして、中でもとっておきの一曲を聞かせていただきました。






 

どっさり節

 


「やっぱり知夫里のひとの人間性。というものが民謡の中にも表れる。どっさり節というのは浜辺に出て島の娘が船頭さんを想いながら恋しくて、ゆったりと秘伝の物語を歌うわけだ。愛しくて会いたくて。でも、座敷に戻ったり宴会になるとゆったりとした曲がポンコポンコはねる賑やかで騒ぎたくなるようなテンポに切り替えるわけ。だからしげさ節もつらい、わびしい、かなしい、会いたい、そういうのとパッと賑やかになる2面性をもっている。それから財産なのは、安来は安来節だけ。石見は石見神楽だけ。関は関の五本松だけなんよ。ところが、隠岐は民謡といったら数多くある。それは全部、日本全国から流れてきたもんなの。」







千晶さんがアカペラで歌うどっさり節は驚くほど静かでした。スピーカーから流れる、しなやかで力強い歌声が部屋に響き渡ります。歌を聞く信幸さんのうしろで千晶さんが微笑んでいるのが見えたような気がしました。












「どっさり節」

どっさり節はしげさ節と並ぶ隠岐民謡の代表曲で、北前船でやってきた越前の船頭と恋仲になったお松が、船頭から聞いた追分節を口伝えたものが「どっさり節」として伝えられた。「どっさり」はどっさりくっさり(知夫の方言で「どうにかこうにか」という意味)からきている。島津島渡津海岸の先には今でも「お松の碑」が残っている。三味線の伴奏と歌のメロディが複雑に絡み合う大変難しい曲。

来居港に来港する隠岐汽船フェリーの船内で流れる曲は千晶さんが歌い、信幸さんが三味線を演奏しているどっさり節。(2020年4月現在)

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